2015年03月28日
ハンドメの進捗
♪Marvin Gaye / What's Going On
私は体調によって聴きたい音楽が変わることが度々ある。
基本的に私はいつでもSOUL系を好んで聴きはするが、疲れてるときに情熱的なサザンソウルはちと重い。
その点、ノーザンソウル(モータウン系)の洗練された楽曲は体調に関係なく心地よく聴けるような気がする。
モータウンレーベルを代表するソウルシンガーの筆頭であるマーヴィン・ゲイという男。
コテコテのリズム&ブルーズでその圧倒的歌唱力でチャートを独占した初期。
タミー・テレルと共に、小鳥がさえずるようなキャッチーなデュエットを聴かせた中期。
タミーの死後、精神を病みながらも苦悩の中で社会的問題に真っ向から訴えかけた後期。
彼の人生はブルースそのものであり、その人生から生み出された響きはまさにソウルそのものだった。
洗練の中に熱い高ぶりを、類稀なる表現力で綴り続けた彼の楽曲はいつ聴いても胸のうちに染み渡る。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
と、いうわけでそんなマーヴィン・ゲイの曲を聴きながら今夜もハンドメイドに勤むくろねです。(●゜m゜)
いや~、
予想はしておりましたがやはり予想通り、
ハンドメイドは相当な根気が必要な作業ですね!!!;;
ビルダーの皆さんを改めて尊敬し直しました(-_-;;;
不器用な私はカッターだとどうしてもザックリ必要以上に刃を入れてしまう恐れがあるので成形はペーパーのみ。
番手は荒いものから始めはしますが、やはり時間はかかります。

こうしてコシコシと何十分もバルサを擦っていると、そりゃ愛着も湧いてきます^^;

シンカーの位置に関しては試作品を何度か風呂場でバランスを見ながら、
確信は持てないながら一応考慮しつつ決定しましたが、
そもそものシェイプに関しては完全にフィーリングです(笑)
細目のペーパーで表面を整えながらセルロースで数回ドブ浸けと乾燥を繰り返し・・・

アルミを張ってさらにドブ浸けし乾燥・・・

とりあえず形だけは土台が出来上がりました!(>∀<。)ノ
いやはや、実はアルミ貼るのも相当難儀致しました;;
カーナビのフィルムアンテナも上手に貼れた試しの無い私。
何度も曲がっては直し、挙句シワだらけ。
上手くいったかと思い油断しているとうっかり爪を当ててしまいまたやり直し;
本当、繊細な作業ですね~(><)
それでもなんとかブランクの状態まで漕ぎ着けて嬉しかったです^^
ただ、この状態ではまだ不安要素を沢山かかえたままである事には違いありません・・
それというのも、
先日ルアー作りをしている先輩の作品の一部を見せてもらったんですが
それはそれは素晴らしい仕上がりで、商品として売っていてもおかしくない見た目だったんです。
しかしながら先輩は、「こいつら見た目は良いんだけど泳ぎがなぁ・・;」と一言。
いやまさかそんなはずはと、そのルアーを借りて風呂場で試してみると・・・
ま・・・まるで泳がないじゃないですか;;;;;
本当だった・・(汗
【形がどーこー、シンカーがどーこー、さぁうまく塗装できるんだろうか}
・・なんて事ばかりに頭が集中してしまっていた私に衝撃が走りました。;;
そう!ちゃんと泳いでくれなきゃ意味が無いんだった(;;;;゜Д゜)
もちろん器用な先輩はきちんと問題点をクリアして作り直すのでしょうが、
形ができてきただけで浮かれていた私には気を引き締め直すいい勉強になりました。
先輩の作品なので掲載は遠慮しておきますが、
本当に見た目には素晴らしいミノーなんです!
シェイプや塗装も綺麗なのは勿論、沈下姿勢も悪いようには見えない。
リップだって位置や角度なんか市販されているバルサミノーとそう違いは無い。。
それでもどこかに原因があるんだろうなぁ~;;
ん~。。難しい;;;;;
実用の為のルアーとしては泳ぐ事が大前提。
「泳ぐ」ためのバランスの妙、考察の重要性を改めて考えさせられました。
ビルダーのみなさんは「泳ぐ」ミノーにする為に特に心がけている事などございますか?
もちろん「そんな事山ほど試行錯誤して自分の感覚で覚えろよ」というのが正論かとは思いますが、
もし何かヒントのようなものでも頂けると有難いです(;∀;)
~Fin~
私は体調によって聴きたい音楽が変わることが度々ある。
基本的に私はいつでもSOUL系を好んで聴きはするが、疲れてるときに情熱的なサザンソウルはちと重い。
その点、ノーザンソウル(モータウン系)の洗練された楽曲は体調に関係なく心地よく聴けるような気がする。
モータウンレーベルを代表するソウルシンガーの筆頭であるマーヴィン・ゲイという男。
コテコテのリズム&ブルーズでその圧倒的歌唱力でチャートを独占した初期。
タミー・テレルと共に、小鳥がさえずるようなキャッチーなデュエットを聴かせた中期。
タミーの死後、精神を病みながらも苦悩の中で社会的問題に真っ向から訴えかけた後期。
彼の人生はブルースそのものであり、その人生から生み出された響きはまさにソウルそのものだった。
洗練の中に熱い高ぶりを、類稀なる表現力で綴り続けた彼の楽曲はいつ聴いても胸のうちに染み渡る。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
と、いうわけでそんなマーヴィン・ゲイの曲を聴きながら今夜もハンドメイドに勤むくろねです。(●゜m゜)
いや~、
予想はしておりましたがやはり予想通り、
ハンドメイドは相当な根気が必要な作業ですね!!!;;
ビルダーの皆さんを改めて尊敬し直しました(-_-;;;
不器用な私はカッターだとどうしてもザックリ必要以上に刃を入れてしまう恐れがあるので成形はペーパーのみ。
番手は荒いものから始めはしますが、やはり時間はかかります。
こうしてコシコシと何十分もバルサを擦っていると、そりゃ愛着も湧いてきます^^;
シンカーの位置に関しては試作品を何度か風呂場でバランスを見ながら、
確信は持てないながら一応考慮しつつ決定しましたが、
そもそものシェイプに関しては完全にフィーリングです(笑)
細目のペーパーで表面を整えながらセルロースで数回ドブ浸けと乾燥を繰り返し・・・
アルミを張ってさらにドブ浸けし乾燥・・・
とりあえず形だけは土台が出来上がりました!(>∀<。)ノ
いやはや、実はアルミ貼るのも相当難儀致しました;;
カーナビのフィルムアンテナも上手に貼れた試しの無い私。
何度も曲がっては直し、挙句シワだらけ。
上手くいったかと思い油断しているとうっかり爪を当ててしまいまたやり直し;
本当、繊細な作業ですね~(><)
それでもなんとかブランクの状態まで漕ぎ着けて嬉しかったです^^
ただ、この状態ではまだ不安要素を沢山かかえたままである事には違いありません・・
それというのも、
先日ルアー作りをしている先輩の作品の一部を見せてもらったんですが
それはそれは素晴らしい仕上がりで、商品として売っていてもおかしくない見た目だったんです。
しかしながら先輩は、「こいつら見た目は良いんだけど泳ぎがなぁ・・;」と一言。
いやまさかそんなはずはと、そのルアーを借りて風呂場で試してみると・・・
ま・・・まるで泳がないじゃないですか;;;;;
本当だった・・(汗
【形がどーこー、シンカーがどーこー、さぁうまく塗装できるんだろうか}
・・なんて事ばかりに頭が集中してしまっていた私に衝撃が走りました。;;
そう!ちゃんと泳いでくれなきゃ意味が無いんだった(;;;;゜Д゜)
もちろん器用な先輩はきちんと問題点をクリアして作り直すのでしょうが、
形ができてきただけで浮かれていた私には気を引き締め直すいい勉強になりました。
先輩の作品なので掲載は遠慮しておきますが、
本当に見た目には素晴らしいミノーなんです!
シェイプや塗装も綺麗なのは勿論、沈下姿勢も悪いようには見えない。
リップだって位置や角度なんか市販されているバルサミノーとそう違いは無い。。
それでもどこかに原因があるんだろうなぁ~;;
ん~。。難しい;;;;;
実用の為のルアーとしては泳ぐ事が大前提。
「泳ぐ」ためのバランスの妙、考察の重要性を改めて考えさせられました。
ビルダーのみなさんは「泳ぐ」ミノーにする為に特に心がけている事などございますか?
もちろん「そんな事山ほど試行錯誤して自分の感覚で覚えろよ」というのが正論かとは思いますが、
もし何かヒントのようなものでも頂けると有難いです(;∀;)
~Fin~
2013年02月01日
釣れないの嗜み
おはようさんです(`・ω・´)
この記事は過去に他サイトで掲載したものですが、そのサイトを閉じたので
単に個人的な記録として紹介させて頂きます。
前サイトから御世話になっている方々は既に読まれているものかもしれませんが、
この時の気持ちは今も同じなので。
勿論アングラーの皆さんからすれば"今更わかりきった事を"という内容も多々ありますが、そこは御了承下さい(笑)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
”釣れないの嗜み”
私は下手くそである。
なのでボウズの釣行は珍しくない。
普段は"起きれない男"No.1の座を欲しいままにしているこの私だが、こと釣りに関してだけは違う。
真夜中に自ら強制的に身体をしばき起こし、自動で降りる瞼をグリグリと擦りながら、熊鈴の音と共に意気揚々と玄関を飛び出ていくのだ。
山から山へ駆けめぐり、結果ボウズで釣りを終え家に戻ると
「なーんだ釣れなかったか」
「あーあ、残念だったな」
と、家族は落胆と同情の入り交じった表情で慰めの言葉をかけてくれる。
有り難い気遣いではある。
だが、その度に私は内心戸惑ってしまい「ん、あぁ。」と言う程度の雑な返答をしてしまうのだ。
何故ならば、釣果があろうとなかろうと、いや…それは勿論釣果があった方が楽しいには違いないが、実際釣れない釣行の場合でも私の心は落胆どころか楽しい気持ちで満ちているからである。
つまり私の気持ちと同情してくれる人の気持ちに明らかな温度差があるということ。
かといって第三者、まして釣りをしない立場から見れば"釣り"="釣ってなんぼ"、all or nothingの世界という印象になるのは尤もな感覚だと思うし、おそらくはそう考えるアングラーも少なくはないだろう。
釣りのスタンスは人それぞれ、異なった感覚に理解を得るのは難しいし、そもそも得ようと思うこと自体が間違っているのかもしれない。
しかし"釣れない釣り"、もとい"釣れる事が困難な釣り"だからこそ、そうでなくては味わえない楽しさが存在するという事をせっかくなのでここに綴ってみようと思う。
それは先ずひとつに「考える」楽しさ。
"渓流は美しい。"
原始のままの力強さを感じさせる生命感溢れる森、涼やかな風に瑞々しくそよぐ木々の青さ、岩々に複雑に絡み合い流れゆく穏やかな清流、鳥のさえずり。
渓流釣りとはそういった素晴らしいフィールドで竿を振るという風光明媚な趣味である。
しかし、実際は他の釣りに比べてそんなコンディションの良い状態で釣りが出来るタイミングはめったに無い、過酷な釣りというのが本当のところ。
たった半年のシーズンの中、春は積雪・低水温、夏は渇水と高水温、秋の大水、雨が降れば濁流大増水。
身の危険を感じることは数知れない。
ただでさえ気難しい渓魚をそんな困難な環境下で、その上ルアーで狙うという極めてマゾヒスティックな行為と言えるかもしれない。
たまたま活性が上がった時はさておき、それ以外ではそんな簡単には釣れやしないのだから。
ましてや下手くそな私はまぁ釣れない(笑)
しかし、釣れないからこそ、下手ならば下手なりに釣り人は考えを巡らせる。
川の状態に合わせたアプローチの仕方、レンジ、スピードその他諸々。
しかしそれは誘い方だけの話ではない。
例えば増水でいつもの川が釣りにならなければ、地図を開き想像力をフル稼働させ、過去の記憶の引き出しを片っ端から開け放ち、可能性を求め新たな川を探し、開拓する。
困難な状況があるからこそ未知の川に立ち、実際に自分の目で見ることで経験と知識を重ねることが出来る。
つまり、考え学ぶ楽しさは困難無しには成立しない。
だから私は釣りにならないような困難な状況も有り難いとさえ思っている。
多分、いつでも簡単にいくらでも釣れるような釣りであったなら、こんなにのめり込んだりしなかったろう…。
安っぽい言い方をするならば、それはある種の「冒険の旅」。
大人になってからじゃそうそう体験できない感覚と胸の高鳴りがそこにはある。
そして二つ目に、「渓流に釣りに行く」という行為そのものに含まれる楽しさ。
私は1人の釣行も度々するし、場合によっては釣り仲間と3人で賑やかに行く場合もあるが、基本的には2人で行く釣行が好きだ。
日も出ていないうちに待ち合わせをし目的地へと車を走らせ、初めのうちこそ「今日の水量は…」「気温上がったから活性が…」「あのポイントに去年でっかいのが…」なんて言い合っているのだが、道程は長く、そんなミーティングも空が青く滲む頃には次第に話題が変わる。
互いの悩みや様々な事に対する素直な気持ちが口をつくようになる。
普段言えないことを口にするというのは酒の席ではよくあることだが、それとは全く質が違う。
いい大人とは思えないくらい瞳は澄み、薄紫の空と朱色の光に包まれたその表情は、まるで無垢な少年のようにいつの間にか変わっている。
それは兄貴も、同僚も、上司も、友達も皆同じ。そして多分私も。
心が少年に戻り、無垢な言の葉がお互いの口から溢れていく。
もし話が込み入ると泣いちまいそうになるくらい‥、そんな不思議な時間が幻想的な異空間の様で、私はたまらなく大好きなのだ。
無垢な人の心は、言葉は、かくも美しい。
(捉え方によっては誤解を招くので釘を刺しておくが、私はBLにはさらさら微塵も興味は無い)
そんな道程を含め、例え釣果がどんな結果になろうとも、一回一回の釣行には文字には表せないほどのドラマがある。
それは"釣れない釣り"がもたらす嗜みに他ならないのではないだろうか。

この記事は過去に他サイトで掲載したものですが、そのサイトを閉じたので
単に個人的な記録として紹介させて頂きます。
前サイトから御世話になっている方々は既に読まれているものかもしれませんが、
この時の気持ちは今も同じなので。
勿論アングラーの皆さんからすれば"今更わかりきった事を"という内容も多々ありますが、そこは御了承下さい(笑)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
”釣れないの嗜み”
私は下手くそである。
なのでボウズの釣行は珍しくない。
普段は"起きれない男"No.1の座を欲しいままにしているこの私だが、こと釣りに関してだけは違う。
真夜中に自ら強制的に身体をしばき起こし、自動で降りる瞼をグリグリと擦りながら、熊鈴の音と共に意気揚々と玄関を飛び出ていくのだ。
山から山へ駆けめぐり、結果ボウズで釣りを終え家に戻ると
「なーんだ釣れなかったか」
「あーあ、残念だったな」
と、家族は落胆と同情の入り交じった表情で慰めの言葉をかけてくれる。
有り難い気遣いではある。
だが、その度に私は内心戸惑ってしまい「ん、あぁ。」と言う程度の雑な返答をしてしまうのだ。
何故ならば、釣果があろうとなかろうと、いや…それは勿論釣果があった方が楽しいには違いないが、実際釣れない釣行の場合でも私の心は落胆どころか楽しい気持ちで満ちているからである。
つまり私の気持ちと同情してくれる人の気持ちに明らかな温度差があるということ。
かといって第三者、まして釣りをしない立場から見れば"釣り"="釣ってなんぼ"、all or nothingの世界という印象になるのは尤もな感覚だと思うし、おそらくはそう考えるアングラーも少なくはないだろう。
釣りのスタンスは人それぞれ、異なった感覚に理解を得るのは難しいし、そもそも得ようと思うこと自体が間違っているのかもしれない。
しかし"釣れない釣り"、もとい"釣れる事が困難な釣り"だからこそ、そうでなくては味わえない楽しさが存在するという事をせっかくなのでここに綴ってみようと思う。
それは先ずひとつに「考える」楽しさ。
"渓流は美しい。"
原始のままの力強さを感じさせる生命感溢れる森、涼やかな風に瑞々しくそよぐ木々の青さ、岩々に複雑に絡み合い流れゆく穏やかな清流、鳥のさえずり。
渓流釣りとはそういった素晴らしいフィールドで竿を振るという風光明媚な趣味である。
しかし、実際は他の釣りに比べてそんなコンディションの良い状態で釣りが出来るタイミングはめったに無い、過酷な釣りというのが本当のところ。
たった半年のシーズンの中、春は積雪・低水温、夏は渇水と高水温、秋の大水、雨が降れば濁流大増水。
身の危険を感じることは数知れない。
ただでさえ気難しい渓魚をそんな困難な環境下で、その上ルアーで狙うという極めてマゾヒスティックな行為と言えるかもしれない。
たまたま活性が上がった時はさておき、それ以外ではそんな簡単には釣れやしないのだから。
ましてや下手くそな私はまぁ釣れない(笑)
しかし、釣れないからこそ、下手ならば下手なりに釣り人は考えを巡らせる。
川の状態に合わせたアプローチの仕方、レンジ、スピードその他諸々。
しかしそれは誘い方だけの話ではない。
例えば増水でいつもの川が釣りにならなければ、地図を開き想像力をフル稼働させ、過去の記憶の引き出しを片っ端から開け放ち、可能性を求め新たな川を探し、開拓する。
困難な状況があるからこそ未知の川に立ち、実際に自分の目で見ることで経験と知識を重ねることが出来る。
つまり、考え学ぶ楽しさは困難無しには成立しない。
だから私は釣りにならないような困難な状況も有り難いとさえ思っている。
多分、いつでも簡単にいくらでも釣れるような釣りであったなら、こんなにのめり込んだりしなかったろう…。
安っぽい言い方をするならば、それはある種の「冒険の旅」。
大人になってからじゃそうそう体験できない感覚と胸の高鳴りがそこにはある。
そして二つ目に、「渓流に釣りに行く」という行為そのものに含まれる楽しさ。
私は1人の釣行も度々するし、場合によっては釣り仲間と3人で賑やかに行く場合もあるが、基本的には2人で行く釣行が好きだ。
日も出ていないうちに待ち合わせをし目的地へと車を走らせ、初めのうちこそ「今日の水量は…」「気温上がったから活性が…」「あのポイントに去年でっかいのが…」なんて言い合っているのだが、道程は長く、そんなミーティングも空が青く滲む頃には次第に話題が変わる。
互いの悩みや様々な事に対する素直な気持ちが口をつくようになる。
普段言えないことを口にするというのは酒の席ではよくあることだが、それとは全く質が違う。
いい大人とは思えないくらい瞳は澄み、薄紫の空と朱色の光に包まれたその表情は、まるで無垢な少年のようにいつの間にか変わっている。
それは兄貴も、同僚も、上司も、友達も皆同じ。そして多分私も。
心が少年に戻り、無垢な言の葉がお互いの口から溢れていく。
もし話が込み入ると泣いちまいそうになるくらい‥、そんな不思議な時間が幻想的な異空間の様で、私はたまらなく大好きなのだ。
無垢な人の心は、言葉は、かくも美しい。
(捉え方によっては誤解を招くので釘を刺しておくが、私はBLにはさらさら微塵も興味は無い)
そんな道程を含め、例え釣果がどんな結果になろうとも、一回一回の釣行には文字には表せないほどのドラマがある。
それは"釣れない釣り"がもたらす嗜みに他ならないのではないだろうか。

2012年12月27日
それでも私は魚籠を下げる
さて、実は今回はちょっと自分の中では重いテーマ。
Release or Eat (リリースかキープか)のお話。
渓流ルアー&フライと言えばリリースがもはや無言のマナーとさえ思われる風潮である昨今。
トラディショナルな紳士の釣りというイメージに代表される様に、
この釣りをする人間は確かに他の釣りに比べて自然保護・資源保護の観念が色濃いように感じる。
乱獲をする一部の餌釣師に嫌悪を抱くあまりの裏返しというのも、少なかれそれに含まれているのは事実だろう。
無論その思いは私とて同じ。
出来る限り人工物で川を汚したくない。貴重な水産資源を守っていきたい。。。
がしかし、
それでも私は魚籠を下げる。
簡単に言ってしまえばそう、基本的にリリース派では無いのだ。
実は私は、これまでの人生で魚はずっと苦手だった。
見る分には良いが、食べるのも骨だらけで苦手、触るのも生臭くて苦手、
なんなら釣りどころかそうしたアウトドア全般に苦手意識を持っていた。
しかし社会に出て、自分の趣向を無意識に固めてしまっている小さな自分の背中に気付いてしまった。
世界には色々な素晴らしさがあるというのに、それには目を伏せ、
自分の枠を自分で勝手に決め込んで可能性を遮断してしまっている愚かな己に気付いてしまった。
"折角生かされているんだから、何にでも挑戦してみよう。"
そう決意し、始めたもののひとつがこの渓流ルアーという釣りだった。
始めた頃は特に何も考えず、釣った魚を持って帰ると家族が喜んで食べてくれたのでそれで良いと思っていた。
しかし、少ないながら知識を蓄え始め、現代の河川資源の希少さを自覚し、
私も一時他の方々がそうされているように全てリリースする時期があった。
だが、
手のひらから流れに戻ってゆく弱った魚のその頼りない背中を見て、またもや私は考えてしまった。
その傷が致命傷では無かったにしても、自分は"イタズラに魚に傷をつけてしまっているのだけではないか?"
"食料にもしない、必要としていないはずの「命」を勝手なエゴで弄んでいるだけの行為ではないのか?"
そんな思想の果て、私は"命の責任を取る"という意識の元、
自分がその日食べられる分に関してはなるべく持ち帰り食すという道を選んだ。
ペット以外の動物の命の重さが感じにくい現代、どんなにエラそうな事を言っても私とて例外ではない。
だからこそ、生きた魚体を自分の手で捌き食す事で、そのかけがえの無い命を奪い
”生かされている"事を自覚する必要があると思った。
それでこそこの「釣る」という行為に対して自分の中で「筋」が通ると考えた。
簡単に言えば、
「食う為に釣る」に近い思想。
だがかといってそれでは、「じゃあ必要な分釣ったらもう帰りゃいいじゃん」という話である。
正解!その通り!(笑)
でも悲しいかな理想を頭では考えられてもやはり私も所詮この釣りの中毒者。
そこまで割り切れる程悟ったフリなど出来はしない。(含笑)
やっぱり探究心の湧き上がるまま、楽しみたい!上達したい!
そんな葛藤をしつつ、今は複雑なレギュレーションを無意識に自分の中に設定しつつ、
キープとリリースを区分けしながら釣りをしている。(これも言ってしまえば個人的なエゴに過ぎないんですけどね;)
「いやいやいや、別にそんな難しく考える必要ねーだろ!」と、
釣り仲間にこの話をしたらきっと笑われてしまうだろうけども。
今でも正直リリースしている仲間の横でキープしている自分の行為に、
恥じるわけでも罪悪感に縛られるわけでも無いのだが、やっぱりちょっと複雑な気分ではある。
おそらくリリース派のその仲間達から見ても、私のその姿を見るのは複雑な気分なのだろう。
しかし私は現在、このスタンスを変える気にはならない。
こんな風に面倒な事を細かく考える必要など本当はきっと無いのかもしれないが、
私は小さな事でも考え続ける釣り人でありたいと思っている。

(追記)
あっ、
かつて魚が苦手とかなんとか書きましたが、今となっては純粋に大好物です(笑)
そもそも嫌々食うなんてことしたら魚に失礼ですしねw
立ち上げて間もないのにどろどろディープな内容ばっかりですいません!(爆)
でもこの題材は、自分の考えをまとめるためにもいつかはしっかり文章にして置きたいと前々から思っていたもんで。。。
次は多分アホみたいにゆる~い内容になると思いますが拍子抜けせんで下さいね(笑)
それではまた!ノシ