釣れないの嗜み

くろね

2013年02月01日 08:35

おはようさんです(`・ω・´)

この記事は過去に他サイトで掲載したものですが、そのサイトを閉じたので

単に個人的な記録として紹介させて頂きます。

前サイトから御世話になっている方々は既に読まれているものかもしれませんが、

この時の気持ちは今も同じなので。


勿論アングラーの皆さんからすれば"今更わかりきった事を"という内容も多々ありますが、そこは御了承下さい(笑)








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”釣れないの嗜み”






私は下手くそである。


なのでボウズの釣行は珍しくない。



普段は"起きれない男"No.1の座を欲しいままにしているこの私だが、こと釣りに関してだけは違う。


真夜中に自ら強制的に身体をしばき起こし、自動で降りる瞼をグリグリと擦りながら、熊鈴の音と共に意気揚々と玄関を飛び出ていくのだ。


山から山へ駆けめぐり、結果ボウズで釣りを終え家に戻ると


「なーんだ釣れなかったか」

「あーあ、残念だったな」


と、家族は落胆と同情の入り交じった表情で慰めの言葉をかけてくれる。

有り難い気遣いではある。


だが、その度に私は内心戸惑ってしまい「ん、あぁ。」と言う程度の雑な返答をしてしまうのだ。


何故ならば、釣果があろうとなかろうと、いや…それは勿論釣果があった方が楽しいには違いないが、実際釣れない釣行の場合でも私の心は落胆どころか楽しい気持ちで満ちているからである。


つまり私の気持ちと同情してくれる人の気持ちに明らかな温度差があるということ。


かといって第三者、まして釣りをしない立場から見れば"釣り"="釣ってなんぼ"、all or nothingの世界という印象になるのは尤もな感覚だと思うし、おそらくはそう考えるアングラーも少なくはないだろう。

釣りのスタンスは人それぞれ、異なった感覚に理解を得るのは難しいし、そもそも得ようと思うこと自体が間違っているのかもしれない。




しかし"釣れない釣り"、もとい"釣れる事が困難な釣り"だからこそ、そうでなくては味わえない楽しさが存在するという事をせっかくなのでここに綴ってみようと思う。




それは先ずひとつに「考える」楽しさ。



"渓流は美しい。"


原始のままの力強さを感じさせる生命感溢れる森、涼やかな風に瑞々しくそよぐ木々の青さ、岩々に複雑に絡み合い流れゆく穏やかな清流、鳥のさえずり。

渓流釣りとはそういった素晴らしいフィールドで竿を振るという風光明媚な趣味である。


しかし、実際は他の釣りに比べてそんなコンディションの良い状態で釣りが出来るタイミングはめったに無い、過酷な釣りというのが本当のところ。

たった半年のシーズンの中、春は積雪・低水温、夏は渇水と高水温、秋の大水、雨が降れば濁流大増水。

身の危険を感じることは数知れない。

ただでさえ気難しい渓魚をそんな困難な環境下で、その上ルアーで狙うという極めてマゾヒスティックな行為と言えるかもしれない。

たまたま活性が上がった時はさておき、それ以外ではそんな簡単には釣れやしないのだから。

ましてや下手くそな私はまぁ釣れない(笑)

しかし、釣れないからこそ、下手ならば下手なりに釣り人は考えを巡らせる。

川の状態に合わせたアプローチの仕方、レンジ、スピードその他諸々。

しかしそれは誘い方だけの話ではない。

例えば増水でいつもの川が釣りにならなければ、地図を開き想像力をフル稼働させ、過去の記憶の引き出しを片っ端から開け放ち、可能性を求め新たな川を探し、開拓する。

困難な状況があるからこそ未知の川に立ち、実際に自分の目で見ることで経験と知識を重ねることが出来る。

つまり、考え学ぶ楽しさは困難無しには成立しない。

だから私は釣りにならないような困難な状況も有り難いとさえ思っている。

多分、いつでも簡単にいくらでも釣れるような釣りであったなら、こんなにのめり込んだりしなかったろう…。

安っぽい言い方をするならば、それはある種の「冒険の旅」。

大人になってからじゃそうそう体験できない感覚と胸の高鳴りがそこにはある。



そして二つ目に、「渓流に釣りに行く」という行為そのものに含まれる楽しさ。


私は1人の釣行も度々するし、場合によっては釣り仲間と3人で賑やかに行く場合もあるが、基本的には2人で行く釣行が好きだ。


日も出ていないうちに待ち合わせをし目的地へと車を走らせ、初めのうちこそ「今日の水量は…」「気温上がったから活性が…」「あのポイントに去年でっかいのが…」なんて言い合っているのだが、道程は長く、そんなミーティングも空が青く滲む頃には次第に話題が変わる。

互いの悩みや様々な事に対する素直な気持ちが口をつくようになる。


普段言えないことを口にするというのは酒の席ではよくあることだが、それとは全く質が違う。



いい大人とは思えないくらい瞳は澄み、薄紫の空と朱色の光に包まれたその表情は、まるで無垢な少年のようにいつの間にか変わっている。



それは兄貴も、同僚も、上司も、友達も皆同じ。そして多分私も。

心が少年に戻り、無垢な言の葉がお互いの口から溢れていく。

もし話が込み入ると泣いちまいそうになるくらい‥、そんな不思議な時間が幻想的な異空間の様で、私はたまらなく大好きなのだ。

無垢な人の心は、言葉は、かくも美しい。


(捉え方によっては誤解を招くので釘を刺しておくが、私はBLにはさらさら微塵も興味は無い)



そんな道程を含め、例え釣果がどんな結果になろうとも、一回一回の釣行には文字には表せないほどのドラマがある。


それは"釣れない釣り"がもたらす嗜みに他ならないのではないだろうか。











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